彼女と話をしてみたい。
そんな段階の願いでは僕の気持ちは抑えきれず、彼女を自分のものにしたいと、いつしか願うようになった。しかしそう強く願うたびに、彼女に拒まれないかと、僕の恐怖心が見え隠れする。
正直、自分でもこんなに弱い男だったなんて驚いている。どうしてだろう、彼女を目の前にするだけで、僕は何も出来ない臆病者になる。
けれど、願ってばかりじゃ何も叶わない。
……そんなこと、痛いほど分かってるんだ。
僕はひとつ溜め息をついた。
……もし。
もし、彼女から話しかけてくれたら僕は……。
神様が願い事を叶えてくれる、そんなおとぎ話を信じてた自分は、遠い昔に置いてきたと思ったのに。都合が悪くなると、見たこともない神様にすがってしまう自分にちょっと笑ってしまう。
ふと気が付くと、窓の外の風景が僕の学校近くの住宅街に変わっていた。そろそろ、この甘い時間を食べ終わらないといけない。
僕がバスの停車ボタンを押したとき、そばに置いていた文庫本が僕の足下に落ちた。
……はぁ。
それを拾いあげようと体を屈めたが、バスが左に大きくカーブした。落ちた文庫本は、それが必然と言わんばかりに、ずずずと右に流れていった。
僕は待て待てと、文庫本を目で追っていると、白い柔らかそうな手が僕の本を拾い上げた。刹那、その手の主を僕は簡単に想像することができた。
「はい」
「あ、ありがと」
このとき、僕は初めて彼女の顔を真正面から見た。僕の思ってた通り、彼女は美人だ。
「この本、面白いですよね」
「え、あ、そ、そうなの?」
「……読んでるんじゃないんですか?」
「あ……」
口が引きつった僕の顔を、彼女は唖然とした様子で見ている。
彼女から話しかけてもらえるなんて、微塵にも思っていなかった僕は大失態を見せてしまったのだ。こんなことなら、真面目に読んでおけば良かった、なんて今さら遅い後悔をする僕。きっと変な男と思われたに違いない。
僕は恥ずかしくて穴に入りたい気持ちになった。出来るだけ大きな、深い深い穴に入りたい。
こうして後悔の渦に巻かれていた僕を、彼女は声をあげて笑った。
「面白い人なんですね」
それからしばらくして、バスは僕の学校の前に停まり、僕はバスから降りた。 バスはゆっくりとスピードを上げていき、彼女を乗せて僕の前から姿を消した。
『面白い人なんですね』
彼女の透明な声が僕の耳の奥で響く。
目を閉じると彼女の笑顔が浮かぶ。
僕は今ここで、決して何も恐れないと誓おうと思う。
彼女のあの笑顔が僕だけに向けられるように。
僕以外の男が彼女の甘い空気に気が付く前に。
確かに彼女のことを考えるだけで、今も僕の小さな小さな心臓は、ぎゅぅっと苦しそうな悲鳴を上げる。
だけど今までに体験したことがない、この胸の痛み、痛いのに甘い感覚。
この大切な想いを守るために僕はもう恐れない。
明日も僕はあのバスに乗る。
さて、キミと何を話そうか。
――おわり――