《交涉人》序章三原文
しかし、警視庁、大阪府警など重犯罪が頻発しているいくつかの警察組織では、必要に応じた形で犯罪交渉人制度を取り入れる動きが出ている。特に警視庁はネゴシエーターの重要性を強く認識していたために、二年前に当時警視だった石田修平をFBIに派遣、ネゴシエーター制度のシステムについて学ばせていた。
半年の研修を終えて帰国した石田は警護課に配属され、特殊捜査班で人材の育成を始めるなど、あらゆる面で現実の凶悪犯罪に対応出来る新しい組織作りを目指している。日本で最も交渉術に詳しい警察官と考えられていたし、事実その通りだった。
遠野麻衣子の抜擢もその一環だった。日本に馴染まないネゴシエーター制度を確立するために石田は努力している。当然講習の内容は厳しい。麻衣子も何度か辞めたいと思ったが、信頼出来る人間の下で働くことが出来る喜びの方が大きかった。
(なぜだろう)
と思う。なぜ、わたしはこの人のことを信じるのだろう。能力に対する信頼感だろうか。
確かに、石田修平のネゴシエーターとしての知識は深い。アメリカでの経験もあったし、帰国後に日本で実地に学んだことも大きかった。その能力は他の追随を許さないものがある。
何度か麻衣子は石田と共に実際の捜査現場にも出動したが、どのような事態が起きても冷静さを失うことなく落ち着いて対処していく石田には驚くしかなかった。麻衣子が知っている限り、犯人との交渉において石田が間違った判断を下したことはない。人命尊重の立場を固守する石田が現場の指揮を担当する事件において、犯人も含め死亡者が出たことはなかった。
だが、石田への信頼感がその能力によるものではないことを麻衣子は知っていた。最初に会った時から、自分にはわかっていたのだ。
「遠野くん、ゆっくりやっていこう」
特殊捜査班に配属された日、会議室に麻衣子を呼んだ石田はそう言った。
「まだ日本の警察では交渉人制度は認められてはいない。焦る必要はない」
あの声なのだ、と思う。静かで、それでいて厳かな声。目をつぶって聞いていると、まるで深い山の中にいるような気がしてくる。心の中まで見透かされているような、そんな声。
信頼出来ると思った。その直感は間違っていなかったと思う。講師としても、警察官としても厳しい存在だったが、それも麻衣子を優秀な交渉人にするための熱意の表れであることは確かだった。信頼感は尊敬に変わり、その思いが別の感情に変化していくのに時間はかからなかった。
この人はどうなのだろうか。わたしのことをどう思っているのだろうか。
「どうした」パイプ椅子から腰を浮かした石田が心配そうに言った。「体調でも悪いのか」
大丈夫です、と答えて麻衣子はマニュアルの文章を目で追った。顔が赤くなっているのが自分でもわかる。声に出して続きを読み上げた。
無理なことはわかっている。年齢も違う。十も離れているのだ。しかも石田には妻子がいる。警察機構は普通の会社以上に論理には厳しい。
でも、と思う。石田も自分のことを意識していないわけではない。そんな気がする。石田は仕事場以外では決して麻衣子と二人きりにならないようにしていた。今日まで二人だけで酒を飲みにいったことはもちろん、食事をしたことさえない。不自然なほどだった。にもかかわらず、時々視線を感じることがある。