中日国交正常化45周年特別企画「国交正常化45年の歩み―あの日、その時」
今年は中日国交正常化45周年です。この記念すべき年を迎えるに当たり、中国国際放送局は特別企画「国交正常化45年の歩み―あの日、その時」を毎週土曜日にお送りしています。今回は「スキー交流で結ばれた中日の絆」についてお届けします。お相手は朱丹陽です。
45年前の1972年9月29日。中国と日本の間で国交正常化の共同声明が発表され、1931年から続いたおよそ40年に渡る戦争状態が終結しました。その後の日本との政治、経済、文化などの交流は、中国が間もなく迎える転換期に大きな役割を果たしました。スポーツ界でも中国と日本の間で感動的な物語が生まれました。
それは中国が1980年のアメリカレークプラシッド冬季オリンピックの参加を決定したことが始まりでした。このオリンピックへの参加は中国にとって非常に意義深いもので、その前の年の1979年11月にオリンピックへ念願の復帰を果たしたからです。
1958年、国内外の複雑な情勢により、新中国はやむを得ず国際オリンピック組織委員会から撤退しました。冷戦、文化大革命、台湾の五輪代表問題など国内外の情勢に強く左右され、復帰の道は紆余曲折に満ちていました。そして、ついに21年後、念願のオリンピック委員会の仲間入りを果たすことができました。
ところが、翌年2月開催の冬季オリンピックの開催まで残り3カ月でした。中国はスキー、スケート、バイアスロンの18種目に参加することになりましたが、特にスキー選手にとって過酷な現実が待っていました。
中国のスキー種目の大会参加経験と言えば、1950年代から60年代まで開催された国内のスキー大会と冬季大会に限られていました。また、外国選手との交流は中国を訪問したソ連チームのみ。さらに、練習環境なども決して恵まれているとは言えませんでした。
このような状況下で強化訓練するには、外国に頼むしかなく、考慮の末、技術力のある隣国の日本が候補に挙がりました。早速、「全日本スキー連盟」に協力を持掛けましたが、47都道府県それぞれにスキー連盟があるため引き受けまでに時間がかかってしまう、または拒否される恐れもありました。しかし、すぐに長野スキー連盟から受け入れるという回答を得ました。真っ先に手を挙げたのが、元全日本スキー連盟理事で、長野スキー連盟の片桐匡会長でした。中国が選手入りしたのは、1979年12月の終わりのこと。この時に選手を迎え、訓練を含めた日常生活全ての面倒を見たのが、現在の長野スキー連盟河野博明副会長でした。河野副会長は、当時をこのように振り返ります。
「長野スキー連盟が4人の中国選手を引き受け、野沢温泉スキー場で強化訓練することになりました。私はコーチを担当しました。およそ一カ月間、競技の規則などを全部教えました。このほかにもアメリカの食文化なども教えました。
スキー器具やウエア、それから一カ月間の滞在費は、全部日本のスポーツメーカーがバックアップしました。
中国が冬季五輪への参加を決定したこと、日本が中国選手の受け入れを決定したことは非常に素晴らしいことだと、今でも思っています」
4人の選手は、野沢温泉スキー場で一カ月の強化訓練を終え、その足でレークプラシッド大会に向かいました。成績は決してよいものとは言えませんでしたが、中国にとってオリンピックへの復帰、世界の舞台を見ることができたのは何よりの経験となりました。ここから両国のスキー界は強い絆で結ばれることになり、今日のスキー選手らは、世界で勇ましく羽ばたくようになりました。その原点は、日本・長野での強化訓練にあったと言えるでしょう。
中国では長野スキー連盟の協力を「雪中に炭を送る」と感謝の気持ちで称えられ、今でもスキーに関する話題などでこの交流が取り上げられています。
中日国交正常化45周年記念特別番組「国交正常化45年の歩み―あの日その時」。今回は「スキー交流で結ばれた中日の絆」についてお届けしました。次回は「今も交流が続く両国のスキー関係者の話」お送りします。お相手は朱丹陽でした。(朱丹陽 星和明)