101 村上/世界尽头与冷酷仙境1 权宜式人生

101 村上/世界尽头与冷酷仙境1 权宜式人生

2017-03-07    10'26''

主播: 千秋的布丁酱

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介绍:
世界尽头与冷酷仙境 冷酷仙境1 电梯、无声、肥胖 音乐:[山顶夕景]-岸部眞明 とにかく私はいつもズボンのポケットにかなりの量の小銭を貯めておくように心懸けている。右側のポケットに百円玉と五百円玉を入れ、左側に五十円玉と十円玉を入れる。一円玉と五円玉はヒッポポケットに入れるが原則として計算には使わない。両手を左右のポケットにつっこみ、右手で百円玉と五百円玉の金額を数え、それと並行して左手で五十円玉と十円玉の金額を数えるのだ。そういう計算はやったことのない人には想像しにくいだろうが、はじめのうちはかなり厄介な作業である。右側の脳と左側の脳でまったく別の計算をし、最後に割れた西瓜を合わせるみたいにそに二つを合体させるわけである。慣れないにはなかなかうまくいかない。 本当に右側の脳と左側の脳を分離して使い分けているのかどうか、正確な所は私にはわからない。脳生理学の専門家ならもっと別の表現をするかもしれない。しかし私は脳生理学の専門家ではないし、それに実際に計算をしてみると確かに右側の脳と左側の脳を使い分けているような気がするものなのだ。数え終わった後の疲労感を撮ってみても、通常の計算をした後の疲労感とは随分質が違っているように思える。そこで私は便宜的に、右の脳で右ポケットの勘定をし、左の脳で左ポケットの勘定をするという風に考えているわけだ。 私はどちらかといえば様々な世界の事象・ものごと・存在を便宜的に考える方ではないかと自分では考えている。それは私が便宜的に性格の人間だからというのではなくーーもちろんいくぶんそういう傾向があることは認めるがーー便宜的にものごとを捉える方が正統的な解釈よりそのものごとの本質の理解により近づいているような場合が世間には数多く見受けられるからである。 例えば地球が球状の物体ではなく巨大なコーヒーテーブルであると考えたところで、日常生活のレベルでいったいどれほどの不都合があるだろう?もちろんこれはかなり極短な例であって、何もかもをそんな風に自分勝手に作りかえてしまうわけではない。しかし地球が巨大なコーヒーテーブルであるという便宜的な考え方が、地球が球場であることによって生ずる様々な種類の瑣末な問題ーー例えば引力や日付変更線や赤道といったような大して役に立ちそうもないものごとーーをきれいさっぱりと排除してくれることもまた事実である。ごく普通の生活を送っている人間にとって赤道などという問題にかかわらねばならないことが一生のうちにいったい何度あるというのだ? というわけで私はできるだけ便宜的な視点からものごとを眺めようと心懸けている。世界というのは実に様々な、はっきりといえば無限の可能性を含んで成立しているというのが私の考え方である。可能性の選択は世界を構成する個々人にある程度委ねられているはずだ。世界とは凝縮された可能性で作り上げられたコーヒーテーブルなのだ。 平时我总是注意在衣袋里留有相当数目的零币。右侧衣袋里放一百元和五百元的,左侧放五十元和十元的。一元和五元零币原则上放进裤子的后袋,不用于计算。于是我将两手插入左右两只衣袋,右手数一百元和五百元的,左手点五十元和十元的,二者并行不悖。 没做过这种计算的人恐怕难以想象,起始阶段还是颇有难度的。因为大脑的右半球和左半球要分别进行完全不同的计算,最后像吻合切开的西瓜一样将两组数字合在一起。而这是非常困难的,如果不习惯的话。 至于是否真的要将大脑左右两半球分开使用,这点我也说不清楚。若是脑生理学专家,也许会采用更为特殊的说法,但我一来不是脑生理学家,二来实际计算中确实觉得是在将大脑左右两半球分开使用的。就计算完后的疲劳感来说,也好像与进行一般计算后的疲劳感在本质上大为不同。因此作为权宜之计,我暂且认为自己以脑的右半球计算右边的衣袋,左半球则在计算左边的衣袋。 总的来说,我这人对事上种种事象、事物和存在恐怕都习惯做权益式考虑。这并非因为我属于权益式性格——当然我承认自己有几分这样的倾向,而是因为我发现对于世上大多数情况,较之正统式解释方法,采用权益式方式更能接近事物的本质。 譬如,即使我们把地球视为一个咖啡桌而不看做是球状体,在日常生活这个层次上又有多少不便之处呢?诚然, 这是个相当极端的例子,并不是说对任何事情都可以如此随心所欲地妄加变通。只是,将地球视为巨大咖啡桌地权益式观点,事实上势必一句排除因地球是球状体而产生的诸多繁琐问题——例如引力、日期变更线和赤道等无关紧要的事项。对于过普普通通生活的人来说,非与赤道等问题纠缠在一起的时候一生中又能有几次呢! 由此之故,我便尽可能从权益式角度来观察事物。我的看法是:世界这东西委实含有各种各样的简言之即无限的可能性,唯其如此才得以成立。而对可能性的选择在某种程度上则是由构成这个世界的每一个人来决定的。所谓世界,便是由浓缩的可能性制成的咖啡桌。