简介:
《方丈记》是鸭长明隐匿日野山时,回忆生平际遇、叙述天地巨变、感慨人世无常的随笔集。其成书于1212年,被誉为日本隐士文学之“白眉”(最高峰)!全书共十三节,以简洁严整的和汉混合文体写成,笔意生动而富有感情。
【古文】
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と、栖(すみか)とまたかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀(まれ)なり。或は去年(こぞ)焼けて、今年作れり。或は大家(おほいへ)亡びて小家(こいへ)となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中(うち)に、わづかにひとりふたりなり。朝(あした)に死に、夕(ゆふべ)に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰(た)が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはばあさがほの露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし。
(2:21 ……过渡…… 2:28开始是现代文朗读)
【現代語訳】
ゆく川の流れは絶えることがなく、しかもその水は前に見たもとの水ではない。淀みに浮かぶ泡は、一方で消えたかと思うと一方で浮かび出て、いつまでも同じ形でいる例はない。世の中に存在する人と、その住みかもまた同じだ。
玉を敷きつめたような都の中で、棟を並べ、屋根の高さを競っている、身分の高い人や低い人の住まいは、時代を経てもなくならないもののようだが、これはほんとうかと調べてみると、昔からあったままの家はむしろ稀だ。あるものは去年焼けて今年作ったものだ。またあるものは大きな家が衰えて、小さな家となっている。住む人もこれと同じだ。場所も変らず住む人も多いけれど、昔会った人は、二、三十人の中にわずかに一人か二人だ。朝にどこかでだれかが死ぬかと思えば、夕方にはどこかでだれかが生まれるというこの世のすがたは、ちょうど水の泡とよく似ている。
私にはわからない、いったい生まれ、死ぬ人は、どこからこの世に来て、どこへ去っていくのか。またわからないのが、一時の仮の宿に過ぎない家を、だれのために苦労して造り、何のために目先を楽しませて飾るのか。その主人と住まいとが、無常の運命を争っているかのように滅びていくさまは、いわば朝顔の花と、その花につく露との関係と変わらない。あるときは露が落ちてしまっても花は咲き残る。残るといっても朝日のころには枯れてしまう。あるときは花が先にしぼんで露はなお消えないでいる。消えないといっても夕方を待つことはない。
【翻译】逝川流水:
逝川流水不绝,而水非原模样。滞隅水浮且消且结,那曾有久伫之例。世上的人和居也如此。 敷玉洒金般的都城里,并栋比甍、贵贱人等的住居,虽几经世代而延续,但寻究其间真实,昔日的本家罕见,不是去年被烧今年新造,就是大宅衰微成了小宅。 住的人也相同。尽管地方没变,人也甚多,但旧日见过的人,二三十人中只有二三人。朝死夕生,复而不已,恰似水泡。 不清楚,新生的死去的人,来自何方去了哪里?亦不清楚,这梦幻的宿世,为谁恼心,又因何要眉开眼笑? 那主人那宅院互争无常的样子,说起来无异于喇叭花上的露珠。时而露珠落去花留着,留是留着,但一见朝阳即枯。时而花萎露珠未消,消是未消,但不待黄昏时。
【朗读者吴小璀老师简介】
中国首位中日同传翻译硕士导师,北京大学翻译硕士班外聘专家。20多年日语教学经验。在日本学习生活工作14年。接受过NHK播音员的培训。在北京语言大学被国家公派学员誉为“完美教师”。学员评价其“语音语调标准到没有朋友,且声音有治愈能力”。
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