銅賞
『 銀座で買った香水 』
鈴木 容子 66歳 小冊子コーディネーター 神奈川県
母の遺品を整理したのは、まだ春浅い日の事であった。
たんすの引き出しの隅に、少し汚れたガーゼのハンカチに包まれたものがあった。手にすると固い。不思議に思い開けてみると、見覚えのある黒い香水の瓶が出てきた。
私の職場が京橋に決まった時、母は言った。
「娘と、銀座で買い物をするのが夢だった」
母は秋田県の田舎から上京。青春時代にはおしゃれなものなど何もなかっただろう。
活気にあふれていた時代・昭和43年、母と銀座で買い物をした。何となく親孝行した気分でいた私に、母はまたまた言った。
「母の日に、銀座のデパートで買った香水が欲しい。香りは最高のおしゃれだそうよ」
絶句する私に
「お金は私が出すから」。
そんなことならお安い御用。奇妙な母の日のプレゼントとなったのが、あの香水だ。
香水の瓶は、引き出しの中で長い事眠っていたのだ。陽にかざすと、わずかに減っている。耳たぶにそっと香水をつけ、母はどこかへ行ったのだろうか。
こんなに残して勿体ない。と私は思った。せっかく買ってあげたのに。蓋をそっと開け、陽だまりに瓶を置いてみた。
母は、もしかしたらもったいなくて香水を付けられなかったのかもしれない。母はそういう時代に生きたのだ。つけてゆくところなど、なかったのかもしれない。香りは最高のおしゃれ、と言った母はおしゃれとは無縁の生活を送っていた。それだけにおしゃれへの憧れも強かったのだろう。
香りには形がない。けれど、持っているだけで、香りは心を優しくしてくれるような気がする。母はきっと、香水を持っているだけで満足だったのだ。少し汚れたハンカチは、母が何度も手にしたことを物語っていた。
春の陽が、優しく瓶に降り注いでいた。
前のページへ戻る