#日本散文#「百まで」(数到一百)

#日本散文#「百まで」(数到一百)

2016-12-02    05'29''

主播: 光金大叔

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介绍:
2015年 第20回入賞作品 佳作 「百まで」  森山 高史(67歳 自営業)  毎年のことだが、年末年始は、山形で暮らす娘が沖縄に帰ってくる。三歳になる孫娘と婿殿も一緒だ。帰省と言うより、雪のない暖かい沖縄で遊ぶことが目的のようだ。私たち夫婦も、普段は出向かない観光地や遊戯施設にお供して、わいわい楽しんでいる。  今回の帰省から、孫が一緒に風呂へ入ってくれるようになった。自分から、 「じいじと、お風呂に入るゥ」 と言い出し、このトシヨリを喜ばせる。  娘が小さかったころ、よく一緒に入ったものだ。久しぶりの経験であったが、体も頭も、うまく洗うことができた。最後に浴槽で温まるとき、娘にもよくしたように、孫娘にも言ってみた。 「百まで数えたら、出てもいいよ」  孫は一から十までは、なんとか数えられるようになっていた。十一以上の数は、まだ挑戦の気配もない。百に至るまでの時間調整で、多めにも少なめにも数の誤魔化しがきくのだが、私は律儀に正確に百まで数えた。二分間の至福の時間だ。  目一杯に遊んで、最後の日になった。娘と婿殿は、荷物の片づけに忙しい。そこで、孫の手を引いて、海辺まで散歩に出かけた。我が家の飼い犬も一緒だ。 「じいじ、ニッキーは何歳?」 と、孫が犬の年齢を訊いてきた。  答えてやると、今度は、 「じいじ、じいじは何歳?」 と、質問してきた。  曖昧に、あるいは冗談で答えてもいい場面だったが、私は律儀に正確に、六十七歳と答えた。その数字が大きいのか小さいのか、孫には分かるのだろうか。 「百歳になったァ?」 とも訊いてくる。ここも、ふざけて答えると、三歳児は真に受けてしまう。正しく否定した。 「百歳になれるゥ?」  大胆な質問だ。正確に答えるのは難しい。希望になってしまう。孫にとって、百は一番大きな数字だ。その数字を出してきた。 「いいよぉ。じいじは頑張って、百まで生きてみるさぁ。約束しようねぇ」  答えが、ずれているかもしれない。根拠もなしに、流れでそう言った。孫は、「うん」と頷いてくれた。  たとえ、孫がその約束を忘れても、私は覚えているだろう。孫がすぐに忘れてしまうだろう約束を、私は律儀に守ろうとしている。孫の言葉には、長生きを連想させる意味合いなど全くないのかもしれない。それでも、私は嬉しい。嬉しいから、約束した。  約束を果たすには、あと三十三年を要する。考えようで、それほど長い数字ではない。風呂場で六十七から計り始めれば、百になるまで一分掛からない。  約束達成のときは、孫も三十六歳。おそらく、子供もいるだろう。その曾孫と遊べる日が来るかもしれない。  曾孫から、 「大きいじいじ、百まで生きたら、死んでもいいよォ」 なんて、可愛く引導を渡されるのを、楽しみに待ちたいのだ。