2015年
第20回入賞作品
佳作
四十七年前の約束
山田 幸夫(67歳)
四十七年前。―高校の卒業式を終えた私は、その翌日の昭和四十二年三月一日、自転車で一か月の九州方面の旅に出発した。
当時、大阪市内に住んでいた私は、自宅からの行程で一泊目~四泊目まで宿泊するユースホステルを事前に予約した。初めての自転車での長期一人旅であり、不安を少しでも緩和するための予約であった。
冬の冷気がまだ残る夜明け前に出発し、瀬戸内海沿いを走り、一日目、相生市に無事到着した時は満足感で気持ちは高揚していた。
予定通り二日目、三日目と走り、岩国のユースホステルに入った時には既に旅の魅力の虜になっていた。ますます高揚していく気持ちのまま明日の旅を思い描いていた。
すると、‥‥
母から私に電話があった。それは、私が四月から勤める会社からの連絡で、入社式が三月六日に行われるというものであった。
「えっ!」と、絞り出した声が精一杯。
しばらく放心状態だったが、入社式に出ないで、旅を予定通り続けるという選択肢がないのは明らかである。
九州へ行くのは諦める他ない。瀬戸内海航路のフェリーで大阪へ戻ることにした。しかし、旅の途中で挫折する無念さと、宿泊をキャンセルするという罪悪感で気持ちは塞がり、導かれるように私は宿泊予約をしていた下関に向かってペダルを漕いだ。
下関のユースホステルに着いた時、脚はパンパンに張り疲れ切っていたが、ペアレントに直接会い、キャンセルする事情とキャンセル料を渡すために来たことを話した。
ペアレントの表情は柔らかく、十七歳の私に対して口調も丁寧に、
「会社勤めをすると、長期の休みも取り難くなるでしょうが、機会があれば何年後であっても是非、我がユースホステルへ寄ってください。その時までキャンセル料は、あなたに預けておきます」
その表情と声には、社交辞令ではない旅人を包む温かさが滲み出ていた。また、そんな配慮に意気を感じ、キャンセル料を預けられた私の「約束」そのものになったのである。
その日の夜、大阪行きフェリーに乗船した。
―それから四十七年。私は定年退職した後、その年の四月、再び自転車旅に出た。
九州一周旅の途、下関のユースホステルに宿泊するため、前日に予約の電話を入れた。
受話器の向こうの声は虚しくもこう言う。「あいにく、忙しくなる五月の連休前まで、明日から休業の予定なんですよ」
気の毒そうな声が聞こえる。
「そうですか‥」後の言葉が続かなかったが、気を取り直し、当時のペアレントの顔を思い浮かべながら、四十七年前の話をした。
長い沈黙の後、「あぁー!」呻くような声に続いて、「覚えています、覚えています」と弾んだ声が重なって聞こえる。
「明日、どうぞ、いらっしてください」
それは明るい声だった。
翌日、関門トンネルを抜け、下関に出た時は雨が降っていたが、目的地まで坂を一気に上り、見覚えのある玄関入口に着いた。
心臓の鼓動とともにドアを開けると、受付カウンターに四十七年前のあの人が居た。
「四十七年振りです」私が言う。
言葉の替わりに、顔をしきりに上下させ頷いてくれている。人との出会いは、一期一会であることを改めて噛みしめた。
ペアレントの白い頭髪が、過ぎ去った年月を物語っている。
この日の宿泊は私一人である。夜の関門橋を眺めながら、眠れぬ夜を過ごした。
翌朝の出発時「昼に食べてください」と渡されたのは、大きな二つのおにぎりだった。包みの中に挟まれていたのは一片のメモ用紙、そこには、こう書いてあった。
「四十七年前の約束、叶いましたね。旅の無事をお祈りします」