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「好き」という言葉は曖昧だ。意味が曖昧なわけではない。言葉に込められる感情の強さの度合いがはっきりしないのだ。ないよりはあったようがいいという程度の「好き」もあるし、それを奪われたり失ったりしたら死んでしまうかもしれないという強烈な感情や意志を伴う「好き」もある。私事で恐縮だが、私は小説を書くのが好きではない。じゃあ、嫌いなのかというとそうでもない。おそらくそれがなくては生きていけないくらい重要で大切なものだが、非常な集中を要するのでとても好きとはいえないのだ。私にとって、小説を書くことは好きという言葉の枠外にある。
もし好きだったら、たぶん日常的な行為になっていただろう。つまり、小説を書くことが自分にとって特別なことではなくなってしまうのだ。
「好き」は理性ではなく感情的な部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、私たちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から湧いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に、他人にわかりやすく説明できるような「好き」は案外どうでもいい場合が多い。