《さまざまな幸せ》(上) 原文
この前、病気で寝ているときは、早く治ることばかりを考えた。この熱が下がったら、このだるさがとれたら、どんなにいいかと思う。
何日か経って、朝、目が覚めると、熱はなさそうである。ほっとして起き上がり、寝間着を服に替える。久し振りに見る戸外は快晴である。
窓を開け、そろそろと顔を出してみる。寝てばかりいた頬に朝の風が心地よい。冷たいが、もう寒気は感じない。
ようやく熱は去ったらしい。
風に吹かれても、寒気を感じない体に安堵しながら、いまさらのように健康であることの素晴らしさを知る。
だが治って数日もたつと、もう平熱や、健康であることのありがたさを忘れてしまう。
かつて、あれほど熱が下がることを望んでいたのが、いまは平熱であるのが当然のようなつもりでいる。
この種のことは、風邪のときだけにかぎらない。胃を病んでも、指を怪我しても同じである。
痛いときには早く治らないかと願い、この痛みがとれたらどんなにいいかと思う。
そして痛みが消えた瞬間には、それこそ、地獄で仏に会ったように、痛みのなくなった幸せに感謝する。
だが、それも数日経つと痛みのない状態が当然だと思うようになる。
身勝手さは私だけでもないらしい。病院にいたさまざまな患者さんにもそうした傾向はあった。
たとえば、脚の骨を折って歩けなかった人が、治って第一歩を踏み出したとき、歩けることの幸せをしみじみと語る。
目が不自由だった人が、治ったとき、ものが見える幸せを延々と語る。
腎炎でいつも塩味を制限されていた人が、治ったとき、なんでも食べられる幸せを話す。
この種の幸せは、数えあげるときりがない。
呼吸ができる幸せ、耳がきこえる幸せ、自由に走れる幸せ、そんな大袈裟なものでなくても、よく眠れる幸せ、眼鏡をかけなくて済む幸せ、自分の歯で食べられる幸せなど、数えあげたらきりがない。
そのときと場合に応じて、人々はさまざまな幸せを感じる。
妙な話だが、私は酔ってトイレに立ったとき、すっきり小水がでる幸せを思い出し、よかったと思う。私はかつて、腎不全で小水の出ない患者さんの苦しみを見たことがあるからである。
そのときの患者さんの一日の水分摂取量は、コップ一杯にかぎられていた。あとはレモンの酸味を吸って渇きをいやす。
腎臓の機能が低下しているため、小水が出ない、、少しでも水分をとりすぎると、たちまち顔や手足がむくんでしまう。コップに一杯余分に飲むことが、腎臓の機能の低下を招き、昏睡から死につながる。
患者さん達は、一口の水でも、大切に、味わうようにのみ下す。その人達の関心事は、今日は一日、どれくらいの小水が出たかということである。何cc多い、少ないといって一喜一憂する。
患者さんの一人が私に、「思いきり泡立つほど小水をしたい」といったことがあった。
その人にとっては、快く小水をできる人が、この世で一番幸せな人にうつったに違いない。
病気になったことのない人は、病人の苦しみをわからないという。それはおそらくそのとおりに違いない。
そしてそれは病気だけにかぎらない。
背の高い人は、背の低い人の悩みはわからないだろうし、富める人は貧者の気持はわからないだろう。エリートは、どんなに頭がよくても、落伍していった人の気持はわからないだろうし、親の気持も、子は本当の意味で理解できないだろう。
いかに想像力がすぐれていても、経験にはおよばない部分がある。
結局、人々は自分の最も傷ついている部分を最も強く感じることになる。一番気になる、それがすなわち、その人の最大の弱点だということもできる。