《交涉人》序章五原文
異動先は所轄署である高輪署の経理課だった。不可解としか言いようのない異動だった。何が起きているのかわからないまま、即日麻衣子は高輪に移された。事情を確認するために長谷川や石田に何度も電話を入れたが、一切連絡は取れなかった。
十日ほど経った頃、麻衣子と上司が不倫しているという噂が流れていることを同期の刑事が教えてくれた。陰湿なことにその噂はインターネットを通じて本庁の管理職クラスにまで届けられていた。
麻衣子と共に研修を受けていた捜査官の誰かがやったことだという。エリート集団である特殊捜査班に行けなかった悔しさからそんなことをしたのだろう、とその刑事は言った。罪のない嫌がらせのつもりだったかもしれないが、問題は大きくなり、その結果として麻衣子を本庁から遠ざけるという形で決着を見たというのが事の真相のようだった。
上層部にいわれのない誹謗中傷であることを訴え出ようとしたが、高輪署の上司はこれ以上騒ぎを大きくしないでほしいと麻衣子を説得し、暗に辞職を勧めた。
不倫をした覚えはなかったが、そうなってもいいと思っていたことは確かだった。その思いが直接的な行動に出る決意を鈍らせた。
同時に、辞めてしまえば石田との間に何ひとつ接点がなくなってしまうことに気がついた。それならむしろ、ほんのわずかな線でもいいから石田と繋がっていたい。麻衣子はそう考えて辞表を提出しなかった。
これ以上、事を荒立てても仕方がない、とも思った。石田修平警視正は順調にいけば警護課長になり、警護部長になる人材だった。こんなつまらないスキャンダルで、あの人の邪魔をしてはいけない。
それから二年を経っていた。遠野麻衣子は高輪署の経理課で、署員の精算伝票を処理するというデスクワークを毎日こなしていた。異動や昇進の望みはまったくなかった。二十九歳になっていた。