挪威的森林(2)

挪威的森林(2)

2018-12-05    11'36''

主播: 丹青猫

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介绍:
記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていたとき、僕はそんな風 景に殆んど注意なんて払わなかった。とくに印象的な風景だとも思わなかったし、十八年後もそ の風景を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきもしなかった。正直なところ、そのとき の僕には風景なんてどうでもいいようなものだったのだ。僕は僕自身のことを考え、そのときと なりを並んで歩いていた一人の美しい女のことを考え、僕と彼女とのことを考え、そしてまた僕 自身のことを考えた。それは何を見ても何を感じても何を考えても、結局すべてはブーメランの ように自分自身の手もとに戻ってくるという年代だったのだ。おまけに僕は恋をしていて、その 恋はひどくややこしい場所に僕を運びこんでいた。まわりの風景に気持を向ける余裕なんてどこ にもなかったのだ。 でも今では僕の脳裏に初に浮かぶのはその草原の風景だ。草の匂い、かすかな冷やかさを含 んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがまず初に浮かびあがってくる。とてもくっきり と。それらはあまりにくっきりとしているので、手をのばせばひとつひとつ指でなぞれそうな気 がするくらいだ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕 もいない。我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と僕は思う。どうしてこんなことが 起りうるんだろう、と。あれほど大事そうに見えたものは、彼女やそのときの僕や僕の世界は、 みんなどこに行ってしまったんだろう、と。そう、僕には直子の顔を今すぐ思いだすことさえで きないのだ。僕が手にしているのは人影のない背景だけなのだ。 もちろん時間さえかければ僕は彼女の顔を思いだすことができる。小さな冷たい手や、さらり とした手ざわりのまっすぐなきれいな髪や、やわらかな丸い形の耳たぶやそのすぐ下にある小さ なホクロや、冬になるとよく着ていた上品なキャメルのコートや、いつも相手の目をじっとのぞ きこみながら質問する癖や、ときどき何かの加減で震え気味になる声(まるで強風の吹く丘の上 でしゃべっているみたいだった)や、そんなイメージをひとつひとつ積みかさねていくと、ふっ と自然に彼女の顔が浮かびあがってくる。まず横顔が浮かびあがってくる。これはたぶん僕と直 子がいつも並んで歩いていたせいだろう。だから僕が初に思いだすのはいつも彼女の横顔なの だ。それから彼女は僕の方を向き、にっこりと笑い、少し首をかしげ、話しかけ、僕の目をのぞ きこむ。まるで澄んだ泉の底をちらりとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに。 でもそんな風に僕の頭の中に直子の顔が浮かんでくるまでには少し時間がかかる。そして年月 がたつにつれてそれに要する時間はだんだん長くなってくる。哀しいことではあるけれど、それ は真実なのだ。初は五秒あれば思いだせたのに、それが十秒になり三十秒になり一分になる。 まるで夕暮の影のようにそれはどんどん長くなる。そしておそらくやがては夕闇の中に吸いこま れてしまうことになるのだろう。そう、僕の記憶は直子の立っていた場所から確実に遠ざかりつ つあるのだ。ちょうど僕がかつての僕自身が立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるように。 そして風景だけが、その十月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシーンみたいにく りかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。そしてその風景は僕の頭のある部分を執拗に蹴 りつづけている。おい、起きろ、俺はまだここにいるんだぞ、起きろ、起きて理解しろ、どうし て俺がまだここにいるのかというその理由を。痛みはない。痛みはまったくない。蹴とばすたび にうつろな音がするだけだ。そしてその音さえもたぷんいつかは消えてしまうのだろう。他の何 もかもが結局は消えてしまったように。しかしハンブルク空港のルフトハンザ機の中で、彼らは いつもより長くいつもより強く僕の頭を蹴りつづけていた。起きろ、理解しろ、と。だからこそ 僕はこの文章を書いている。僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく 理解できないというタイプの人間なのだ。 彼女はそのとき何の話をしていたんだっけ?