吾輩は猫である
皆さん、こんばんは。
今天继续由主播沐子为大家带来
夏目漱石的《我是猫》共读。
-我是猫40-
《我是猫》是日本作家夏目漱石创作的长篇小说,也是其代表作。这部作品写于1904年至1906年9月,1905年1月起在《杜鹃》杂志上连载,不久,编成上、中、下三册出版。
夏目漱石为发泄多年郁愤而写成的长篇小说《我是猫》,淋漓尽致地反映了二十世纪初,日本中小资产阶级的思想和生活,尖锐地揭露和批判了明治“文明开化”的资本主义社会。 这部作品是以一位穷教师家的猫为主人公,以这只被拟人化的猫的视角来观察人类的心理。这是一只善于思索、有见识、富有正义感又具有文人气质、但至死也没有学会捕捉老鼠的猫。
最初は留守だと思ったが、二返目には病気で寝ているという事が知れた。障子の中で例の御師匠さんと下女が話しをしているのを手水鉢の葉蘭の影に隠れて聞いているとこうであった。
起初,还以为她是外出了。第二次去,才知道花子病卧在床。咱家躲在洗手钵旁蜘蛛抱蛋的叶荫下,偷听师傅和女仆在纸屏后对话如下:
「三毛は御飯をたべるかい」「いいえ今朝からまだ何にも食べません、あったかにして御火燵に寝かしておきました」何だか猫らしくない。まるで人間の取扱を受けている。
一方では自分の境遇と比べて見て羨ましくもあるが、一方では己が愛している猫がかくまで厚遇を受けていると思えば嬉しくもある。
“小花吃东西了吗?”
“不吃。从早晨到现在滴水未进。现在让她躺在火炉旁暖暖身子哪!”
这哪里是猫,简直拿她当成了人。拿花子和咱家的境遇相比,虽然不无炉意,但是,想到心爱的花子小姐受到如此隆遇,又有些欣慰。
「どうも困るね、御飯をたべないと、身体が疲れるばかりだからね」「そうでございますとも、私共でさえ一日御をいただかないと、明くる日はとても働けませんもの」
“不吃饭,这可不行,身体一定会搞垮的。”
“是呀,就连我们,一天不吃饭,第二天就干不动活呢。”
下女は自分より猫の方が上等な動物であるような返事をする。実際この家では下女より猫の方が大切かも知れない。
听女仆答话的口气,仿佛比起她来,猫是更高级的动物。实际上在这户人家,说不定猫就是比女仆更高贵呢。
「御医者様へ連れて行ったのかい」「ええ、あの御医者はよっぽど妙でございますよ。私が三毛をだいて診察場へ行くと、風邪でも引いたのかって私の脈をとろうとするんでしょう。いえ病人は私ではございません。これですって三毛を膝の上へ直したら、にやにや笑いながら、猫の病気はわしにも分らん、抛っておいたら今に癒るだろうってんですもの、あんまり苛いじゃございませんか。腹が立ったから、それじゃ見ていただかなくってもようございますこれでも大事の猫なんですって、三毛を懐へ入れてさっさと帰って参りました」
“带她去就医了吗?”
“是呀。那位医生可太绝啦!我抱着小花到了诊所,他问:‘是受了风寒吧?’说着就要给我切脉。我说:‘不是我,是它。’我把小花放在腿上。医生却笑眯眯地说:‘猫病,我也看不懂。别理它,就会好的。’这岂不太狠心了吗?我生气说:‘那就不看也好吧!它可是一只珍贵的猫呀!’我把猫抱在怀里,便匆匆地回来了。”
「ほんにねえ」
「ほんにねえ」は到底吾輩のうちなどで聞かれる言葉ではない。やはり天璋院様の何とかの何とかでなくては使えない、はなはだ雅であると感心した。
「何だかしくしく云うようだが……」「ええきっと風邪を引いて咽喉が痛むんでございますよ。風邪を引くと、どなたでも御咳が出ますからね……」
“可真是的。”
“可真是的”这词儿毕竟不是猫族中听得到的,除非‘天障院的什么人的什么人’是说不出来的。高雅得很,令人钦佩。
“说得多么悲悲切切呀!”
“听说小花抽抽嗒嗒直哭……”
“是呀,一定是受了风寒,嗓子疼啦。一受风,也要咳嗽的……”
天璋院様の何とかの何とかの下女だけに馬鹿叮嚀な言葉を使う。
「それに近頃は肺病とか云うものが出来てのう」「ほんとにこの頃のように肺病だのペストだのって新しい病気ばかり殖えた日にゃ油断も隙もなりゃしませんのでございますよ」「旧幕時代に無い者に碌な者はないから御前も気をつけないといかんよ」「そうでございましょうかねえ」下女は大に感動している。
难怪是天障院的什么人的什么人的女仆,真会拍马屁。
“而且近来又流行起什么肺病了。”
“可不,听说近来闹什么肺病啦,黑死病啦,新鲜病越来越多哪。这个时令,可半点也大意不得哟!”
“除了从前幕府时期有过的,当今就没有好玩艺儿,所以你也要当心点。”
“可不是么!”女仆十分感动
主播 | 沐子
小编 | tsuki酱
责编 | 日语之声