【日语共读】我是猫(57)
“
吾輩は猫である
”
皆さん、こんばんは。
今天继续由主播liana为大家带来
夏目漱石的《我是猫》共读。
《我是猫》57
来自日语之声
03:3903:39
-我是猫57-
《我是猫》是日本作家夏目漱石创作的长篇小说,也是其代表作。这部作品写于1904年至1906年9月,1905年1月起在《杜鹃》杂志上连载,不久,编成上、中、下三册出版。
夏目漱石为发泄多年郁愤而写成的长篇小说《我是猫》,淋漓尽致地反映了二十世纪初,日本中小资产阶级的思想和生活,尖锐地揭露和批判了明治“文明开化”的资本主义社会。 这部作品是以一位穷教师家的猫为主人公,以这只被拟人化的猫的视角来观察人类的心理。这是一只善于思索、有见识、富有正义感又具有文人气质、但至死也没有学会捕捉老鼠的猫。
少し弁解したかったが、ここが我慢のしどころと唾を呑んで聞いている。話しはしばし途切れる。
咱家本想辩白几句,但又以为这时应该克制,便咽了口唾沫听了下去。
「世の中は自由にならん者でのう。三毛のような器量よしは早死をするし。不器量な野良猫は達者でいたずらをしているし……」「その通りでございますよ。三毛のような可愛らしい猫は鐘と太鼓で探してあるいたって、二人とはおりませんからね」
“人世上真是万般不由人哪!像小花这样俊俏的猫竟然夭折,而那只丑陋的野猫却还健在,继续胡闹……”
“可不是嘛。像小花这样可爱的猫,即使敲锣打鼓,再也找不到第二位哟!”
二匹と云う代りに二たりといった。下女の考えでは猫と人間とは同種族ものと思っているらしい。そう云えばこの下女の顔は吾等猫属とはなはだ類似している。
瞧,不说“第二只猫”,却说“第二位”。照女仆的看法,似乎猫和人是同宗。说到这呀,女仆的面相还真和猫脸像得很哩。
「出来るものなら三毛の代りに……」「あの教師の所の野良が死ぬと御誂え通りに参ったんでございますがねえ」
“如果可能,真想找个替身替小花去死……”
“若是教师家的野猫丧命,你老人家可就如愿以偿啦。”
御誂え通りになっては、ちと困る。死ぬと云う事はどんなものか、まだ経験した事がないから好きとも嫌いとも云えないが、先日あまり寒いので火消壺の中へもぐり込んでいたら、下女が吾輩がいるのも知らんで上から蓋をした事があった。その時の苦しさは考えても恐しくなるほどであった。白君の説明によるとあの苦しみが今少し続くと死ぬのであるそうだ。三毛子の身代りになるのなら苦情もないが、あの苦しみを受けなくては死ぬ事が出来ないのなら、誰のためでも死にたくはない。
她如愿以偿,咱家可受不住。死亡究竟是怎么回事,咱家还未曾体验,爱不爱死也就无从说起。不过,前些天太冷,咱家钻进了灭火罐,女仆不知咱家在里边,给扣上了罐盖。当时那个难受劲儿哟!如今只要想想都感到可怕。据白嫂介绍,再延迟一会儿,可就没命了。替花子小姐去死,咱家自然没有二话。但是,如果不活遭那份罪就死不成,不论替谁去死也不干!
「しかし猫でも坊さんの御経を読んでもらったり、戒名をこしらえてもらったのだから心残りはあるまい」「そうでございますとも、全く果報者でございますよ。ただ慾を云うとあの坊さんの御経があまり軽少だったようでございますね」
“不过,花子小姐虽说是猫,师傅却拿她像亲生女儿一样,给她念了经,取了法名,花子小姐也该死而瞑目了。”
“可不是么,真是一只幸运的猫。若说有什么不足,只是给猫儿念的经太短。”
「少し短か過ぎたようだったから、大変御早うございますねと御尋ねをしたら、月桂寺さんは、ええ利目のあるところをちょいとやっておきました、なに猫だからあのくらいで充分浄土へ行かれますとおっしゃったよ」「あらまあ……しかしあの野良なんかは……」
“我也觉得太短,就问月桂寺的和尚,他却说‘恰到好处。怎么,一只猫嘛,念这些,足够送它上西天了。’”
“呀,那只野猫呢……”
吾輩は名前はないとしばしば断っておくのに、この下女は野良野良と吾輩を呼ぶ。失敬な奴だ。
「罪が深いんですから、いくらありがたい御経だって浮かばれる事はございませんよ」
咱家一再声明,至今还没个名字。可那女仆,一再叫“野猫、野猫”的,真是个冒失鬼!
“他呀,罪孽深重!不论多么灵验的经文,也不可能将他超度喽。”