優秀賞
1世紀生き抜いたばあちゃんとの約束
佐藤 真(43歳 医師)
私なんてまだまだ駆け出しの医者なのだろう、その齢100歳を超えたばあちゃんから見れば。
ひょんなことからこの春より往診を始めることになった。残雪の4月初旬、初めての担当患者さんはアイコさん、1世紀以上生き抜いた元気なばあちゃんだ。私はそろそろ20年目が見えてきた中堅の医者だが彼女の孫よりも若いそうだ。「若くて気さくな先生ねー」それが彼女の最初のひとことだ。初めての往診ということもあり、私はやや上気して話をしていたに違いない。
そんなアイコさんは98歳までは歩いて国内旅行を楽しめるくらい壮健な方だったというが、さすがの彼女もこの1年ぐらいで急に足腰が弱ってきた。「足は第2の心臓です」外来で私が良く患者さんに向けて使うセリフだ。歩けなくなると生物としての人間はかなり弱くなる、ましてや立てなくなるといわずもがな・・・そういえばアイコさんは往診時にはいつもソファに足を延ばして座ったままだった。立ち上がる姿をついぞ見たことがなかった。活動性が明らかに落ちてきている100歳のばあちゃんと取り止めのない話をしてハイタッチをして辞するのが往診の日課になった。
幾度かの往診が過ぎた頃だった、彼女の部屋を訪れて最初の挨拶が「先生もう帰っちゃうの?」に変わった。私は少し面喰らいながらも「まだ来たばかりだよ」「でも帰っちゃうんでしょ?私ねもう何にもできないから寂しい」ばあちゃんはそう言って押し黙ったまま、私が無理やり勧めて部屋に飾らせた彼女の若かりし頃の写真をじっと眺め続けた。
私はしばし沈黙をこらえた後で「じゃあさー昔の写真じゃなくて今度一緒に写真撮ろうよ」一方的で無責任な約束だ。「ええーっ?そんなの恥ずかしいよー」「いいからー次の往診の時は一張羅の服着て待っててね、約束だからね!」困惑するばあちゃんを尻目に次の往診先へ向かった。その後の忙殺された毎日でばあちゃんとのささやかな約束は記憶から忘れ去られてしまっていた。
「こんにちはー往診です」2週間があっという間に過ぎて予定の往診日になった。部屋に入るなりいつものソファにばあちゃんがいないことに気が付いた。いつもは寡黙な娘さんが赤面してちょっと困った顔をしていた。
「今髪を整えているところです」・・・えっ?何それ?・・・「ほら先生前回約束したじゃない」ベテランの看護師が肘でつつく。ああ、そうだった、そうだった。
しばし待つと洗面所からほんのり化粧をして髪を整えた、あまつさえ見慣れない猩々緋色のカーディガンを羽織りしゃんと背筋を伸ばして出てくるばあちゃんがいた。「あー恥ずかしい!」耳まで真っ赤。私としてはばあちゃんが歩く姿を見ることができたのと、予想外にしっかりとした足取りに感動にも近い何かを感じていた。これで100歳、か。
「いいねーホントよく似合っているよ」「母がこの日のために新調したのです」「あー恥ずかしい!」「いいから写真撮ろ!」私はばあちゃんの隣に立ち、左腕で肩を抱いて右手でやや浮腫みがちな手を握る、その刹那思いも寄らず強い力で握り返される。「はーいこっちみてー」いつもより力強いまなざしを私は横目でちらりと確認した。いつもより強烈なハイタッチをして帰路についた。
その次の往診で挨拶もそこそこに「写真出来たよー」と入り込んだ。はしゃいで恥ずかしがる姿を想像したが、神妙に黙ったまま写真に見入るばあちゃん。「ありがとう、先生約束守ってくれて」私も照れ隠しにじっと写真を見つめた。強く握り合う右手と右手。
日本人は世界で一番長生きだが年を取ってから幸福であると実感している割合は先進国中で一番低いという。医学的介入に限界はあるが、ささやかな幸せの約束を重ねていければと思い再びハイタッチをして、軽い足取りで次の往診患者に出向いた。