《隠れた才能》(上) (原文)
先日、偶然のことから久し振りにIさんに会った。Iさんは以前、小説を書いていて、ある新人賞の有力な候補にもなった人である。私と同年輩だが、ものを書きはじめたのは彼の方が早かった。
だが、Iさんはいまは小説を書いていないらしい。「もう、こんな年齢になっては駄目さ、結局、才能がなかったのだよ」Iさんはやや自嘲気味にいった。
だが、Iさんに才能があったのは紛れもない事実であった。当時、彼を知る評論家や編集者は、いずれも彼の才能を認めていた。
しかし結局、彼は筆を折った。期待されながら、自分から引き退がる形で書くことを断念した。
それには運、不運とか、会社の勤務とのかね合い、家族の問題など、いろいろな事情があった。才能とは別のさまざまな理由でおしつぶされたともいえる。
Iさんは飲みながらふと、「俺は気が小さかったからね」とつぶやいた。
どういうわけか、その言葉だけは妙に実感がこもっているように思われた。
身近にいて、私はIさんを比較的よく知っていたが、彼はナイーブな人だった。仲間達は、彼を「鋭く感受性が豊かである」と評し、事実そのとおりだった。
だが、結果として、Iさんの場合はそれが裏目に出たようでもある。
新しい原稿を書いて編集者に渡す。すると編集者が感想を述べ、二、三注意する。新人であればあるほど、そのあたりの注文は厳しい。
Iさんはそうした原稿が返されてくる度に、悩んだ。もちろん原稿が返されては誰でも悩む。私も何度か返されたことがあるのでその辛さはわかる。だが彼の悩み方は、はたからみても痛々しいほどだった。
どうして駄目だったのか、と考え込み、編集者の一言一句を思い出し、あれこれ憶測する。本来、彼は些細なことを気にする性質だったが、それが悪いほうに回転した。
思い悩み、苦しんだ末、ますます書けなくなる。書けないから酒を飲み、遊び歩き、さらに自己嫌悪におちいる。この場合、Iさんのナイーブでとぎすまされた感性が、かえって彼を苦しめたともいえる。
こんなことをくり返すうちに、彼は本当に書けなくなり筆を絶った、というのが真相のようである。
「気が小さかった」というのは、必ずしも適切な表現ではないが、かなり的を射ている。そうした性格的な弱さが、彼の才能の芽をつんだともいえる。
こういうと、「本当に才能のある人はそんなことにかかわらず出てくるものだ」という人もいるかもしれない。事実、編集者のなかにも、そういう見方をする人がいた。
たしかにそれも一理ある。だが私は彼の才能を知っていただけに、その一言で否定するのは少し酷なような気もしていた。