《さまざまな幸せ》(下) (原文)
昔からいわれている診断学の格言に「そこに臓器があるを思う、それがすなわち病気である」という言葉がある。
これは診断学の基本だが、まさしく名言である。
どうも胃が重く、つかえている。胸の下に胃があると思う。それがすなわち、胃が悪い証拠である。
歯が痛い、一日中歯が気になる。歯が存在を主張する。それが歯の悪い証拠である。
指先が疼く、指ばかり気になる。それは指が傷ついている証拠である。
臓器や器官が存在を主張することで、危険信号を出している。目でも耳でも足でも、そこにあると思う。存在して気になる。それが病気だというわけである。
したがって、胃があることも、歯があることも、指のことも、すべて忘れている。どの臓器も器官の存在も気にならない。それがまさしく健康ということになる。
できるならいつもこの状態でいたい。欲をいえば、悩みも心配もないほうがいい。すべて忘れて愉快に過ごせるとさらにいい。でもこんな人はまずいないだろう。大なり小なり、みなどこかに気になるところをもっているか、もったことがある。
だから、ある程度、相手の辛さや立場も理解できるともいえる。
その意味では、健康そのもの、という人は一種の欠陥人なのかもしれない。
少なくとも、病者の気持がわからないという意味で、理解の幅が狭い、といえるかもしれない。
以前、脊髄カリエスで長いあいだ治療していた患者さんが、治ったあと「毎日、感謝することで、日が暮れます」と話してくれた。「今日も膿が出ないありがたさ、ガーゼをしないで歩けるありがたさ、自由にお風呂に入れるありがたさなど、数えあげるときりがありません」といって笑った。
彼の理屈をもってすれば、健康な人は一日中感謝することで追われることになる。
健康な人は、病める人からみると、それだけ幸せに満ちているのかもしれない。だがそれにしても、健康になっても、病気のときのことを忘れない、というのはなかなか難しいことである。
治った瞬間は感謝し、健康に戻ったことに感謝しても、日ごとにその謙虚な気持は薄れてしまう。
感謝の気持を忘れなければ、同じ過ちはくり返さないだろうに、健康をいいことに、いつのまにか不遜になってくる。
実際、いまの私は、もう平熱で歩ける喜びを忘れている。いまの健康は、もとからあったものだと思っている。
そしてたまにトイレに立ったとき、心地よく小水がでる、そのありがたさを思い出すくらいのものである。