《交涉人》序章四原文
たぶん、彼はわたしの気持ちに気づいている。それほど器用な女ではないし、この四ヶ月ほとんど毎日一緒にいるのだ。いくら隠したところでわかってしまうだろう。
日に日に増していく石田への思いを、抑えることが出来なくなっている。このままではいろいろな意味で支障が出てくるだろう。はっきりさせなければならない、と思った。
別に深い関係を望んでいるわけではない。ただ、自分の思いを知ってほしかった。それから先どうなるのかはわからないが、とにかく今のままではいけないと思う。迷惑かもしれないが、そうするしかないのだ。
この一週間、毎日目覚めるたびに自分に言い聞かせていた。今日こそ、気持ちを打ち明ける、と。
だが石田の顔を見るとその決心は揺らぎ、何も言えないままに時だけが過ぎていく。でも、今日は違う。
今日は誘おう、と麻衣子は心に固く誓っていた。聞いてもらうのだ。わたしが、あなたのことをどう思っているかを。
心臓が激しく鳴る。いったいどうなるのだろうか。
「待った」
石田が手を挙げた。内線電話が鳴っている。麻衣子はマニュアルから目を離した。いい、と手を振って石田が電話に出る。
「私だ」
背中を向けて話し始めた。すぐに受話器を置いて会議室の外に出ていく。顔がわずかに強ばっているのがわかった。いったい何があったのだろうか。考える間もなく、すぐに扉が開いて石田が顔を覗かせた。
「済まない。今日はここまでで終わりだ。業務に戻ってくれ」
「事件ですか」
マニュアルを閉じた麻衣子の顔が緊張する。違う、と石田が首を振った。
「ちょっと、娘がね」
それだけ言って扉が閉まった。足音が遠ざかっていく。何日か前から四歳になる一人娘が風邪をひいていることは、本人から聞いて知っていた。
(優しいお父さんだこと)
娘に甘すぎるのは唯一の欠点だ、と思う。その感情の何分の一かでも、自分に向けてくれたら。
(まあいいか)
立ち上がって、資料をバッグに入れた。覚悟を決めていたつもりだったが、やはり実際に告白するのは怖い。心が揺れているのが自分でもわかる。
(明日にしよう)
会議室を出た。明日こそ、本当に言うのだ。
だが、その機会はなかった。
翌日出勤した麻衣子はそのまま課長の長谷川に呼び出され、二日間の出張を命じられた。都内の女性捜査官を集めた研修会に参加するように、ということだった。意味があるとは思えない警視庁OBによる講演を聞いて本庁に戻った麻衣子を待っていたのは、一枚の辞令だった。