ノルウェーの森28

ノルウェーの森28

2019-02-24    10'59''

主播: 丹青猫

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介绍:
僕は何百回もこの手紙を読みかえした。そして読みかえすたびにたまらなく哀しい気持になっ た。それはちょうど直子にじっと目をのぞきこまれているときに感じるのと同じ種類の哀しみだ った。僕はそんなやるせない気持をどこに持っていくことも、どこにしまいこむこともできなか った。それは体のまわりを吹きすぎていく風のように輪郭もなく、重さもなかった。僕はそれを 身にまとうことすらできなかった。 風景が僕の前をゆっくりと通りすぎていった。彼らの語る言葉は僕の耳には届かなかった。 土曜の夜になると僕はあいかわらずロビーの椅子に座って時間を過した。電話のかかってくるあ てはなかったが、他にやることもなかった。僕はいつも TV の野球中継をつけて、それを見ている ふりをしていた。そして僕と TV のあいだに横たわる茫漠とした空間をふたつに区切り、その区切 られた空間をまたふたつに区切った。そして何度も何度もそれをつづけ、後には手のひらにの るくらいの小さな空間を作りあげた。 十時になると僕は TV を消して部屋に戻り、そして眠った。 29 * その月の終りに突撃隊が僕に螢をくれた。 螢はインスタント・コーヒーの瓶に入っていた。瓶の中には草の葉と水が少し入っていて、ふ たには細かい空気穴がいくつか開いていた。あたりはまだ明るかったので、それは何の変哲もな い黒い水辺の虫にしか見えなかったが、突撃隊はそれは間違いなく螢だと主張した。螢のことは よく知ってるんだ、と彼は言ったし、僕の方にはとくにそれを否定する理由も根拠もなかった。 よろしい、それは螢なのだ。螢はなんだか眠たそうな顔をしていた。そしてつるつるとしたガラ スの壁を上ろうとしてはそのたびに下に滑り落ちていた。 「庭にいたんだよ」 「ここの庭に?」と僕はびっくりして訊いた。 「ほら、こ、この近くのホテルで夏になると客寄せに螢を放すだろ?あれがこっちに紛れこんで きたんだよ」と彼は黒いボストン・バックに衣類やノートを詰めこみながら言った。 夏休みに入ってからもう何週間も経っていて、寮にまだ残っているのは我々くらいのものだっ た。僕の方はあまり神戸に帰りたくなくてアルバイトをつづけていたし、彼の方には実習があっ たからだ。でもその実習も終り、彼は家に帰ろうとしていた。突撃隊の家は山梨にあった。 「これね、女の子にあげるといいよ。きっと喜ぶからさ」と彼は言った。 「ありがとう」と僕は言った。 日が暮れると寮はしんとして、まるで廃墟みたいな感じになった。国旗がポールから降ろされ、 食堂の窓に電気が灯った。学生の数が減ったせいで、食堂の灯はいつもの半分しかついていなか った。右半分は消えて、左半分だけがついていた。それでも微かに夕食の匂いが漂っていた。ク リーム・シチューの匂いだった。 僕は螢の入ったインスタント・コーヒーの瓶を持って屋上に上った。屋上には人影はなかった。 誰かがとりこみ忘れた白いシャツが洗濯ロープにかかっていて、何かの脱け殻のように夕暮の風 に揺れていた。 僕は屋上の隅にある鉄の梯子を上って給水塔の上に出た。円筒形の給水タンクは昼のあいだに たっぷりと吸いこんだ熱でまだあたたかかった。狭い空間に腰を下ろし、手すりにもたれかかる と、ほんの少しだけ欠けた白い月が目の前に浮かんでいた。右手には新宿の街の光が、左手には 池袋の街の光が見えた。車のヘッドライトが鮮かな光の川となって、街から街へと流れていた。 様々な音が混じりあったやわらかなうなりが、まるで雲みたいにぼおっと街の上に浮かんでいた。 瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも弱く、その色はあまりにも淡か った。僕が後に螢を見たのはずっと昔のことだったが、その記憶の中では螢はもっとくっきり とした鮮かな光を夏の闇の中に放っていた。僕はずっと螢というのはそういう鮮かな燃えたつよ うな光を放つものと思いこんでいたのだ。 螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何度か軽く振ってみた。螢 はガラスの壁に体を打ちつけ、ほんの少しだけ飛んだ。しかしその光はあいかわらずぼんやりし ていた。 螢を後に見たのはいつのことだっけなと僕は考えてみた。そしていったい何処だったのだろ う、あれは?僕はその光景を思いだすことはできた。しかし場所と時間を思いだすことはできなか った。夜の暗い水音が聞こえた。煉瓦づくりの旧式の水門もあった。ハンドルをぐるぐると回し て開け閉めする水門だ。大きな川ではない。岸辺の水草が川面をあらかた覆い隠しているような 小さな流れだ。あたりは真暗で、懐中電灯を消すと自分の足もとさえ見えないくらいだった。そ して水門のたまりの上を何百匹という数の螢が飛んでいた。その光はまるで燃えさかる火の粉の ように水面に照り映えていた。 僕は目を閉じてその記憶の闇