読売新聞社賞
「ある意味『おいしい記憶』」
小寺 弘治さん(兵庫)
「明日何が食べたい?」
期待と不安が入り混じったような君の表情が見える。新婚旅行も終わり、明日が最初の手料理だ。
「鰻丼でええんちゃう」
箱入り、それも極めて頑丈な箱に入ってたであろう君に、初日から無理は言えないと思った。それなら大丈夫よと言わんばかりの君の笑顔に安心したのを覚えている。
翌日、仕事を終えて帰宅すると君は今にも泣き出しそうな顔で出迎えた。
「どないしたん?」
「ご飯が・・」と後が続かない。
炊飯器を覗くと、そこには見事なお粥が出来上がっていた。
「何でこうなるん?」
「目盛り通りにお水入れたのに」と、炊飯器が悪いとでも言いたげだ。でも、目盛り通りにすれば、お粥にまでならないことは男の僕でも知っていた。
「どこの目盛り?」
「ここやんか」
君が指差した目盛りの上部には、しっかりとお粥と書いてあった。
「白米はこっちの目盛りやで」
君は新発見とでもいうような顔で僕を見ていた。新婚の二人はお粥の上に鰻をのせて黙々と食べた。本当に奇妙な食感だった。鰻はおいしいけど、お粥にはやっぱり合わない。僕が何かしゃべれば、君の目に溜まった涙が今にもこぼれ落ちそうで、黙々と食べた。
あれから、25年の歳月が過ぎようとしている。3人の男の子を立派に育てた君は強い母になった。料理が苦手だった君が調理師免許を持つ妻になった。
僕はこの25年でどう変わったのだろう。会社で少しは肩書きが付いたが、それが何なのだ。あの新婚当時から、僕はたいして成長していない。
それなのに君はどうだ。
自転車の前と後ろに子供を乗せて颯爽と走る君を見てきた。専業主婦の座を約束したはずなのに、家計のためパートで働く君を見てきた。それでも、毎日頑張って食事を作ってくれる君を見てきた。
君の変身ぶりには目を見張るばかりだ。正直、今の君には白旗を上げるしかない。だから時々、意地悪な僕はあの鰻丼の話を持ち出して、君の困った顔が見たくなる。
あれは本当においしくなかったけど、君に敵わなくなった僕にとって、ある意味「おいしい記憶」なのだ。