2014年
第19回入賞作品
佳作
「手作りのバット」
藤田 哲夫(70歳)
昭和二十八年、小学三年生。当時の私の夢は、自分専用のグラブかバットを持つことだった。戦後の数年間、私が住んでいた地域は、貧しい家が多くあった。とりわけ、我が家はバラック建てのような小さな家で、八畳一間に六人家族が寝起きしていた。物資と食糧難の時代で、我が家の主食は麦飯と芋だったが、三食にもこと欠くことがあった。子ども心に『貧乏』だと感じていた。
当時の子どもの遊びは、空き地で野球をしたり、チャンバラごっこ。遊びの主役は野球で、暗くなるまでボールを追っていた。郷土の松山商業が夏の甲子園で三度目の優勝をした年だったので、高校球児に憧れていた少年が多かった。私もその一人だった。
私は、歳上の子らと一緒に野球に興じていた。道具類は各自が持ち寄る約束だったが、いつも手ぶらで行くので、「ひとの道具を当てにするな! たまには自分の物を持ってこい」と上級生に嫌味を言われ、悔しい思いをした。母に、「ボールを買ってくれ!」
とねだると、「そんな余裕がない。遊び呆けんと勉強せい。姉ちゃんのように級長になってから言え!」と一蹴。成績のことを言われると二の句が出なかった。夕飯時、父は『君の名は』のラジオを聴きながら晩酌をしていた。機嫌が良さそうだったので、「グラブかバットが欲しい!」鬱積していた不満、肩身の狭い思いをしてきた経緯をぶちまけた。
「親の手伝いをするか? 級長になれるぐらい勉強をせい」と交換条件を出した。
想定外の応えだった。「父さんの約束守れる自信があるか?」母はダメ押しした。勉強は自信がなかったが、『グラブ』に賭けてみようと胆を括った。
前年、干拓地を分譲する抽選があって、二反の耕作地が当たっていた。父との約束があるので、学校から帰ると遊びに出ず、干拓地の田に直行した。塩分が抜けきってない、田の整地作業を手伝った。
六月。田植えの手伝いをし、夏休みは親と除草に励んだ。稲刈り時。稲木架けの手伝いで、父に稲束を手渡す。初めての収穫時。足踏み式の脱穀機を、母と一緒に踏んだ。
遠方から、野球に興じる仲間の喚声が、秋風に乗って聞こえる。遊びたい衝動にかられたが、父との約束が脳裏に浮かび、脱穀機のペダルをがむしゃらに踏んだ。
脱穀した米をドンゴロスに詰め、リヤカーで籾擦り機がある農協へ運んだ。「今日から米だけの飯を毎日食わせてやる」と父は笑った。
三学期が始まった。国語の授業で、「わたしの夢」の題で、作文を書くことになった。父と交わした『約束』のことを書いた。担任のF先生は、クラス代表で市のコンクールに応募してくれ、私の作文が市長賞に選ばれた。
胸を張って両親に見せた。父は、「仕事も、汗を流して努力したら米の飯がたらふく喰える。算数も、もうちょっと頑張ったら、5ぐらい取れる。姉ちゃんに教えてもらえ」と背を押した。算数は自信がなかった。翌年、四年に進級して、一学期の級長選挙があった。
自信がないので迷ったが、『グラブ』が脳裏に浮んだ。勇気を出して立候補した。本命のM君を僅差で破って級長に選ばれた。
一週間後。私の誕生日であった。目覚めると、枕元に真新しいグラブと、手作りのバットが置いてあり、傍に、新聞の広告紙の裏に書いた父のメッセージがあった。
「よく努力した。田んぼを手伝ってくれて助かった・・・ありがとう」
父の寝床に掌を入れるとまだ温もりが残っていた。早朝の漁に出た後だった。母は、
「夜なべをして、バットを削っとった。父さんに感謝せい・・・」と遠い目をして言った。
父は、男どうしの約束を忘れてはいなかった。バットは、少し重めで、グリップ部は市販の物より太かったが、強振するとボールが遠くまで飛んだ。昨春、私は、父と同い歳の六十九歳になった。