《少女の死》 [渡辺淳一]

《少女の死》 [渡辺淳一]

2016-03-28    16'23''

主播: 大黒

207 14

介绍:
《少女の死》 原文 これまで、いくつくらいの死を見てきただろうか。 午後の陽だまりのなかにいると、ふと過去に見た死のことを思い出す。 厳しい死、やわらかい死、激しい死、優しい死、死にもさまざまな顔があった。 死はすべて無言だけれど、死に至る道程は一様ではない。一つ一つの死に意味があるように、そこへたどりつく道にも、人それぞれの裸の姿がでる。 死が訪れたときにこそ、その人の生きていた証を見ることができる。 陽のなかで目を閉じて、すぐ脳裏に浮かんでくるのは、十六歳の少女の死である。 その死を看とったとき、私は医師になって二年目の二十六歳だった。 少女は脊髄に腫瘍ができて、下半身から胸のあたりまで痺れが広がっていた。このまま放置していては、死を待つだけだった。 医局のカンファレンスの結果、腫瘍摘出術が決定されたが、それは成算のある手術ではなかった。 脊髄の上位にある腫瘍の摘出は、そのころでは、ずいぶん難しい手術であった。もちろんいまも、困難であることに変わりはないが。 少女の受持医であった私は、カンファレンスの結果を少女と、その母に告げた。 「このままでは、悪くなるばかりです。治すなら手術しか方法がありません」 そういってから、私は、「手術は難しいけど」と、つけ足した。 少女は、ムンクの絵に出てくるような、目の大きい聡明な子であった。 彼女は少し考えるように、明るい陽のさす窓のほうを見ていたが、やがて「して下さい」と答えた。 詳しいことは知らなかったが、看護婦の話では、付き添っている婦人は少女の義母だということだった。 なにか、それで不都合なことでもあるのかときいてみたが、看護婦は、「そんなことはありません、義理のお母さんでも、一生懸命看病されています」と答えた。 まだ幼いとき、少女は母を失って、父の再婚とともにいまの義母と一緒に暮らすことでもなったのだろうか。 私は勝手に想像したが、それは病気とは関係のないことだった。 それから一週間後に、少女は睡眠薬で朦朧としたまま手術室へ運ばれた。手術はうつ伏せの姿勢でおこなわれるため、背まであった髪は切り落とされ、頭は白いターバンで巻かれていた。 手術は教授が執刀し、まだ新米医師の私は、三番目の助手で、筋鈎で創口を開いているだけだった。 だが、その私にも、手術が失敗であることはわかった。 開いてみると、腫瘍は脊髄神経そのものから発生し、まわりと強く癒着して、異常に膨脹した血管が蛇行していた。細心の注意を払いながら、電気メスをすすめてもすぐ出血し、たちまち血の海になる。 難しいとは思っていたが、これほどの難事とは思わなかった。数時間に及ぶ手術の結果、とり切れたのは、半分にも満たなかった。 しかも長時間の創口の露出と出血で、脊髄神経を痛める結果になっていた。 どの医師も、なにもいわなかったが、少女の上に、死の影が近づいていることはわかっていた。 創口を閉じながら、私は、少女が麻酔から目覚めたときにいう言葉を考えていた。 「失敗でした」とはいえない。といって、「大丈夫です」ともいえない。 「できるだけのことはやりました……」 そんな言葉しかなさそうである。 その夜、遅くなって、少女の意識が戻ったとき、私はその言葉とともに「頑張るんだよ」と、脈をみていた手を握った。 少女は弱い呼吸のなかで、目をいっぱいに見開いてうなずいた。 だが、思ったとおり翌日から熱が出はじめ、翌々日には三十九度をこした。蒼白だった少女の顔は、赤くうるみ、解熱剤をうってもほとんど効果はなかった。 手術による負担と、脊髄の損傷が、急速に少女の体を苛んでいた。点滴から酸素吸入と、うつべき手はすべてうってあったが恢復の見通しはなかった。 「あと、四、五日かな」 病棟主任の先輩はそうつぶやくと私に、「死が近いことを家族に話しておくように」といった。 冬の陽だまりの午後、私が病室へ行くと、少女は熱でうるんだ眼で窓を見ていた。なにか用事でもできたのか、少女の義母はいなかった。 私が近づくと、少女は待っていたようにいった。 「いつごろ、退院できますか」 「まだ、はっきりはいえないけど、もう少し暖かくなったらね」 少女は一旦、うなずいたがすぐ、 「わたし、いま考えていたんですけど、今度退院したら、うんといい子になります」 「いまでも、君は我慢強いし、いい子だよ」 「違うんです。わたしはいままで我儘で、勝手で、自分のことしか考えていなかったのです。でも今度治ったら、きっとみなに優しくしてあげます。お友達にも、弟にも、お義母さんにも」 「お義母さんは、よく看病してくれるだろう」 「そうなんですけど、わたしはいままで抗らってばかりいたんです」 少女は熱で乾いた唇を軽く噛んだ。 「わたしは将来お医者さんになろうかと思うんです。でもお医者さんになるのは難しいでしょうね」 「そんなことはない。君なら大丈夫だよ」 「もしお医者さんになれなかったら、看護婦さんでもいいんです。看護婦さんになるには、高校を卒業してから、看護学校に入ればいいのですね」 私はうなずいてから、ふと、この少女があと数日後に、この世から消え去ることに気がついた。三日か四日か、あるいはもう少しあとかもしれない。 しかし一週間後、少女は確実にこの世にいない。 いまの最高の医学を駆使しても、巨万の富をもってしても、権力者の絶大な力をもってしてもその事実は変えられない、死は彼女に約束された未来である。 「わたし、看護婦さんになったら、苦しんでいる患者さんに、うんと親切にしてあげます」 少女はあきらかに未来を語っていた。決してくることのない未来を、確かにくると思いこんでいる。 いまの言葉の無意味なことを、少女は知らない。虚しい夢であることに気がついていない。 「看護婦さんになる前に、一度ヨーロッパに行ってみたいんです」 「あまり話すと、また呼吸が苦しくなるから、もう休みなさい」 私は熱のある少女の額に軽く掌を触れて、病室を出た。 少女が息をひきとったのは、それから五日あとだった。 少女は沢山の未来を語って死んだ。お義母さんにも、お父さんにも、看護婦にも、私にまで語り、明け方、話すのに疲れたように死んでいった。冷たくなった死体が去ったあとには、白いマットの上に、小さな凹みだけが残った。 その上に、また明るい朝の陽が射しはじめていた。 つい少し前まで、少女が語っていた無数の未来はどうなったのか。あれほど真剣に語られた未来は、どこに葬ればいいのだろうか。 若い人が死んだあとにはいつもそんな虚しさと戸惑いが残る。