ノルウェーの森33

ノルウェーの森33

2019-03-05    11'32''

主播: 丹青猫

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介绍:
水曜日の十二時になっても緑はそのレストランに姿を見せなかった。僕は彼女が来るまでビー ルを飲んで待っているつもりだったのだが店が混みはじめたので仕方なく料理を注文し、一人で 食べた。食べ終ったのは十二時三十五分だったが、それでもまだ緑は姿を見せなかった。勘定を 払い、外に出て店の向かい側にある小さな神社の石段に座ってビールの酔いを覚ましながら一時 まで彼女を待ったが、それでも駄目だった。僕はあきらめて大学に戻り、図書館で本を読んだ。 そして二時からのドイツ語の授業に出た。 講義が終ると、僕は学生課に行って講義の登録簿を調べ、「演劇史Ⅱ」のクラスに彼女の名前を 見つけた。ミドリという名前の学生は小林緑ひとりしかいなかった。次にカード式になっている 35 学生名簿を繰って六九年度入学の学生の中から「小林緑」を探し出し、住所と電話番号をメモし た。住所は豊島区で、家は自宅だった。僕は電話ボックスに入ってその番号をまわした。 「もしもし、小林書店です」と男の声が言った。小林書店? 「申しわけありませんが、緑さんはいらっしゃいますか?」と僕は訊いた。 「いや、緑は今いませんねえ」と相手は言った。 「大学に行かれたんでしょうか」 「うん、えーと、病院の方じゃないかなあ。おたくの名前は?」 僕は名前は言わず、礼だけ言って電話を切った。病院?彼女は怪我をするかあるいは病気にか かるかして病院に行ったのだろうか?しかし男の声からはそういう種類の非日常的な緊迫感はま ったく感じられなかった。、それはまるで病院が生活 の一部であるといわんばかりの口ぶりであった。魚屋に魚を買いに行ったよとか、その程度の軽 い言い方だった。僕はそれについて少し考えを巡らせてみたが、面倒臭くなったので考えるのを やめて寮に戻り、ベッドに寝転んで永沢さんに借りていたジョセフ・コンラッドの『ロード・ジ ム』の残りを読んでしまった。そして彼のところにそれを返しに行った。 永沢さんは食事に行くところだったので、僕も一緒に食堂に言って夕食を食べた。 外務省の試験はどうだったんですか?と僕は訊いてみた。外務省の上級試験の第二次が八月に あったのだ。 「普通だよ」と永沢さんは何でもなさそうに答えた。「あんなの普通にやってりゃ通るんだよ。 集団討論だとか面接だとかね。女の子口説くのと変わりゃしない」 「じゃあまあ簡単だったわけね」と僕は言った。「発表はいつなんですか?」 「十月のはじめ。もし受かってたら、美味いもの食わしてやるよ」 「ねえ、外務省の上級試験の二次ってどんなですか?永沢さんみたいな人ばかりが受けに来る んですか?」 「まさか。大体アホだよ。アホじゃなきゃ変質者だ。官僚になろうなんて人間の九五パーセン トまでは屑だもんなあ。これ嘘じゃないぜ。あいつら字だってろくに読めないんだ」 「じゃあどうして永沢さんは外務省に入るんですか?」 「いろいろと理由はあるさ」と永沢さんは言った。「外地勤務が好きだとか、いろいろな。でも 一番の理由は自分の能力をためしてみたいってことだよな。どうせためすんなら一番でかい入れ ものの中にためしてみたいのさ。つまりは国家だよ。この馬鹿でかい官僚機構の中でどこまで自 分が上にのぼれるか、どこまで自分が力を持てるかそういうのを試してみたいんだよ。わかる か?」 「なんだがゲームみたいに聞こえますね」 「そうだよ。ゲームみたいなもんさ。俺には権力欲と金銭欲とかいうものは殆んどない。本当 だよ。俺は下らん身勝手な男かもしれないけど、そういうものはびっくりするくらいないんだ。 いわば無私無欲の人間だよ。ただ好奇心があるだけなんだ。そして広いタフな世界で自分の力を 試してみたいんだ」 「そして理想というようなものも持ちあわせてないでしょうね?」 「もちろんない」と彼は言った。「人生にはそんなもの必要ないんだ。必要なものは理想でしゃ なく行動規範だ」 「でも、そうじゃない人生もいっぱいあるんじゃないですかね?」と僕は訊いた。 「俺のような人生はすきじゃないか?」 「よして下さいよ」と僕は言った。「好き嫌いもありません。だってそうでしょう、僕は東大に 入れるわけでもないし、好きなときに好きな女と寝られるわけでもないし、弁が立つわけでもな い。他人から一目おかれているわけでもなきゃ、恋人がいるでもない。二流の私立大学を出たっ て将来の展望があるわけでもない。僕に何が言えるんですか?」 「じゃあ俺の人生がうらやましいか?」 36 「うらやましかないですね」と僕は言った。「僕はあまり僕自身に馴れすぎてますからね。それ に正直なところ、東大にも外務省にも興味がない。ただひとつうらやましいのはハツミさんみた いに素敵な恋人を持ってることですね」 彼はしばらく黙って食事をしていた。 「なあ、ワタナベ」と食事が終っててから永沢さんは僕に言った。「俺とお前はここを出て十年だ か二十年だか経ってからまだどこかで出会いそうな気がするんだ。「そして何かのかたちでかかわ りあいそうな気がするんだ」 「まるでディッケンズの小説みたいな話ですね」と言って僕は笑った。 「そうだな」と彼も笑った。「でも俺の予感ってよく当るんだぜ」 食事のあとで僕と永沢さんは二人で近くのスナック・バーに酒を飲みに行った。そして九時す ぎまでそこで飲んでいた。 「ねえ、永沢さん。ところであなたの人生の行動規範って一体どんなものなんですか?」と僕 は訊いてみた。 「お前、きっと笑うよ」と彼は言った。 「笑いませんよ」と僕は言った。 「紳士であることだ」 僕は笑いはしなかったけれどあやうく椅子から転げ落ちそうになった。「紳士ってあの紳士です か?」 「そうだよ、あの紳士だよ」と彼は言った。 「紳士であることって、どういうことなんですか?もし定義があるなら教えてもらえませんか」 「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」 「あなたはぼくがこれまで会った人の中で一番変った人ですね」と僕は言った。 「お前は俺がこれまで会った人間の中で一番まともな人間だよ」と彼は行った。そして勘定を 全部払ってくれた。